寺澤先生インタビュー

#1 救急医になるキッカケ (new)

#2 北米時代 (coming soon)

寺澤先生インタビュー

聞き手:安藤裕貴、前田昌亮(人事部)

 

#1 救急医になるキッカケ

 

— 本日はありがとうございます。寺澤先生の本を持っている人は多いのですが、最近若い先生の中で先生のことを知らない、その心を知らないという人が多くなっており、とても気になっていまして、いくつかお尋ねをさせていただき、広く知ってもらいたいと思っています。まず、どういう経緯で救急医になられたのでしょうか

寺澤先生インタビュー

聞き手:安藤裕貴、前田昌亮(人事部)

 

#1 救急医になるキッカケ

 

— 本日はありがとうございます。寺澤先生の本を持っている人は多いのですが、最近若い先生の中で先生のことを知らない、その心を知らないという人が多くなっており、とても気になっていまして、いくつかお尋ねをさせていただき、広く知ってもらいたいと思っています。まず、どういう経緯で救急医になられたのでしょうか

僕は救急医はやるつもりはなくて、沖縄(県立中部病院)に研修に行ったのは、1年間だけ内科、外科、小児科、産婦人科、麻酔科をローテーションしたかった。当時は大学を卒業すると97人がその大学に残る。いきなり入局する。いきなり専門の勉強をはじめる。

 

僕、学生時代に、一般病院の当直を経験していた。バレー部の先輩の病院だった。

 

心肺停止は来るし、交通事故は来るし、熱性けいれんは来るし、子供も大人も、病気もケガも来る。すごい世界です。

 

そこで一年間、週一で経験をして、普通に内科医になる予定だったんですけど、内科になっても当直で1人でこれだけの相手をさせられるのは、普通の内科の勉強だけではダメだって・・・。ずいぶん悟ったんですね。

 

みんなが入局していくんだけど、絶対当直でみんなひどい目に会うんですよ。自分もそれを避けたいと、内科、外科、小児科、産婦人科と麻酔科をローテーションしたかった。

 

それで探したんですよ。M記念病院、月給6万円。Tの門病院、月給8万円。沖縄県立中部病院、月給20万円。

すっごく極貧の家に育ったので、完全にお金に目がくらんで、沖縄にいった。1年だけスーパーローテーションして帰るつもりだった。(そこで)1年働いたら、全然研修じゃないんですよ。2年目の医者が研修を受けているんですよ。アメリカ人とかカナダ人の指導を受けながら主治医をしているのは2年目なんですよ。

 

1年目はその2年目から、痰のグラム染色して来い、尿をとってこい、って下働きなんですよ。これはもう一年やらないと、ここに来た意味がないなと。それで2年目をやったら、気がついたら間違いが起きていて…、結婚していました(笑)。

 

結婚は判断力の欠落によって発生し、離婚は我慢力の欠落によって起き、再婚は記憶力の欠落によって起きる。…とシェイクスピアが言っている。僕が言っているのじゃない(笑)。

その頃、判断力がなかったんですね。結局2年が3年になり、4年になり、3年目、4年目は2年目のドクターの指導係になる。呼吸器を数ヶ月、循環器を数ヶ月周りながら内科のどれを選ぼうかと苦慮していた。そして選べなかった。

 

そうこうしているうちに内科部長が、4年目の研修が終わるころに「総合内科のグループを立ち上げるから、初代の総合内科のリーダーをやらないか。きみ、内科のどれも捨てがたいと思っているみたいだから、総合内科にふさわしいんじゃないか」って言われて、すんなり「それが僕に合っていると思います」と応えて、内科部長と4月からは総合内科をやるという風に決めていた。

その4月の数ヶ月前にトロント大学から救急の教授が沖縄の病院に来ていた。その沖縄の病院では年に4、5回、4、5人アメリカの教授クラスを2週間呼んで、回診したりカンファランスしたりレクチャーしてもらったりという、そういう仕組みがあって、来ることになるとほとんどのドクターが、内科部長が「再来月にメイヨークリニックの内分泌の教授が来ますよ」っていうと、ハイ!ハイ!って研修医たちがみんな手を挙げて、お世話役をさせてくださいっていう。お世話役をすると、コネができて、そのあと留学の道が開ける。非常に不順な動機でみんなパーッと手を挙げていた。

僕はすごく引っ込み思案な臆病な性格で、アメリカなんかに絶対行きたくない、僕は日本でいいって。適当な時期に福井に戻って、医者であればいい。うちは極貧の百姓でしたから、農業と林業だけで親父は生きていたので、医者でありさえすれば、村では高い高い評価だった。なんとかの医者じゃなく、ただの医者でさえあれば、十分みんながよくやったと言ってもらえる。

 

ところが、トロントの救急の教授が来ると内科部長が言って、パーッと手が挙がるかと思ったら、誰も手を挙げない。内科部長びっくりしてしまって、今でも忘れない「え、誰もいないの?」って。みんな下向いて目と目で合図していたのは、救急はもういいよ、もう十分やってるよ、って。3日に1回当直で、もううんざり。救急はもう絶対に嫌だよな、ってみんなで話し合っていた。

 

内科部長と目が合うと、君!って言われそうだから視線を合わせない。「本当に誰もいないの?」。結局内科部長は、「しょうがない、4年目の研修医の中で…、あ、寺澤くん」って当てられちゃって。「え?僕ですか?」僕は総合内科をやりたい、救急じゃないって、ここにテロップを出したんだけど、もうダメでした(笑)。

それで2週間トロント大学の救急の教授のお世話係をすることになった。それで最後に、送別する夕食会が沖縄では最もいいホテルのレストランで、10人ぐらい病院の幹部の人たちと、お世話係をしたからお前も来ていいよと言われ、ただでフルコースが食べれると、それでもう一番隅っこで料理だけを一所懸命食べていた。みんな英語でずっと喋っていた。わかんない、何喋っているか。途中から非常にトーンダウンして、暗い雰囲気になった。

 

オレ?関係ないし。2週間嫌なことしたからご褒美でこんな美味しいの食べられると思っていた。

 

そしたら急に内科部長が「寺澤くん、いま君のこと話してたんだよ」。えーっ?全然聞いていない。トロント大学の救急の教授曰く、1日に100人も救急の患者が来ているERで、1年目と2年目の研修医だけが診ていて、スタッフは一応当直室にいるけど、ほとんど教育・指導・監督はしていない。研修医だけが診て帰して、手遅れで戻ってくる患者さんも、2週間診ただけで何人か発生している。アメリカ、カナダではこのくらいの規模の救急室なら、3人から5人、ERドクターがいて研修医の教育・指導・監督をしている。ここはひどすぎる。やがて救急の患者で医事紛争が起きて、裁判が起きますよ。もしDr寺澤が、救急医になる気があるのならば、北米で救急医になれるような研修を、私がアレンジしますがいかがですか?っていうふうに言ったらしい。

 

何の断りもなく(笑)。全く分からなかった、英語で喋っているから。

 

僕は内科部長に「いや、僕は4月から総合内科ですよね」ってテロップを送ったんです。内科部長はそれをきちんと読んでくれて、「だよなぁ」って言ってくれると思ったら、全く違った。「総合内科の前にERは悪くないよな」って。そこで裏切るのーみたいな。他の人たちも「寺澤くん、こんなチャンスはないよ」って。チャンスなの?って感じ。

 

やりたくない救急を、しかも行きたくもないアメリカに行かされて、結局末は、帰ってきたら恩返しに、この病院の救急室をさせられるという取引みたいなものだった。足かせをもらうのは嫌ですし、救急に全く関心を持てないし、結局そこで院長とか副院長とか、いろいろな人達が「寺澤くん、これはチャンスだよ」「ぜひこれに乗ったほうがいい」「こんな話はじめてだよ」みたいな感じで、もうみんなは完全に乗り気になっている。

 

もしあのまま総合内科をあの時期に始めていたら、いま輝かしい総合内科医として僕は高い評価を受けていたと思うんだけど・・・。(#2へつづく)

社会法人杏嶺会 一宮西病院 ​総合救急部
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